生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落々磊々
[生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落々磊々]
これは、”生死に輪廻する人間の有様をたとへなり”
”棚の上の作り物の傀儡(あやつり)、種々(いろいろ)に身ゆれども、真(まこと)には動く物にあらず。操りたる糸の態(わざ)なり”
”この糸切れん時は落ち崩れなんとの心なり”
(花鏡)
”生死を繰り返す人間のありさまを例えたものである。
棚に載ったからくり人形は、多種多様に動いているように見えるが、実際に動いているわけではなく、人形を操る糸の動きによるものだ。糸が切れたときはガラガラと崩れてしまうものだ、という意味である”(がぶさん訳)
実はこの詩は花鏡が初見ではなく、世阿弥が月菴宗光の偈文(げもん)から引用したものだそうだ。月菴和尚法語の示宗三禅閣にあるらしい。
(ソース;タチバナ教養文庫版の風姿花伝・花鏡)
行住座臥、一切作用の時、忘るる事なく、怠る事なく、急急に眼を付けて、能能極めて見よ~生死去来 棚頭傀儡 一線断時 落々磊々
ということのようです。
訳文は書いてませんが、いい加減ながぶさん訳では
”お勤めのときも、修行以外の日常生活でも、座り、寝る いかなることを行うとしてもその動作のときに、だ。
忘れずに、怠らずに、切実に気をつけ、よくよく見極めよ。
生き死にを繰り返し解脱できない人間は操り人形のようなもので、その糸がぷつり、と切れたときには全てガラガラと崩れおち何もかも台無しだ”
「生死の去来するは棚頭の傀儡たり。一線断る時、落落磊磊。」 安倍首相辞任に寄せて|龍飛 銀郎(かみたか かねお)|note
「棚頭の傀儡」とは、親や世間体、見栄など、私でない押し付けられた価値観に踊らされている状態を言うと思います。自分では無いものを被せられてしまっている状態。それが親からの押し付けや、所属集団の文化的押し付けである場合もあります。いわゆる「環境」という構造による押し付けです。