形而上のメタバース

 

「形而上」はよく出てくる単語なんだけど意味と読み方が分かってなかったので覚書。

”けいじじょう”と読む。意味は

 

形而上(けいじじょう)の意味 - goo国語辞書

1 形をもっていないもの。

2 哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。⇔形而下。

 

いわゆる今で言うメタと同じような意味っぽい。ここで”形而下”という対義語があることを知った。形而上は使うけど形而下という単語はあまり使わない気がする。形而下とは要はメタ的なものではない形のあるもの。普段から我々が目にしたり触れたり出来ている普通の物体を指す。

 

形而上とか形而下とかいいますが、形而とは何ですか? - Quora

0.)まとめ

「形があって、その~」と後に続ける言葉、です。

1.)第一義的な説明

「形而」というモノやコトがあるわけではありません。

「而」は接続語で、順接にも逆説にも並列にも使えてしまう割とニュートラルな語[1]です。

したがって「形而」と書いても「形(というもの)があって、で…」程度の意味しかありません。

2.)出典に即した説明

易経周易)」という書物の

形而上者謂之道
形而下者謂之器[2]

という対句が「形而上」「形而下」という言葉の使われた最初です。この時点での意味を和訳すると

形より上なる者之を道と謂い、
形より下なる者之を器と謂う。[3]

といったところです。

形のあるモノを「形而下」といってそれは器のようなものだ(形のない水や空気を容れる器は手で触れることができるように)。

形のないモノを「形而上」といってそれは道のようなものだ(人が歩く道筋や方角や志などの道そのものには形がないように)。

みたいな感じで後世の大勢の人が解釈したり訳したりして何百年もやってきました。

3.)実用に即した説明

ところが。明治時代に日本人の哲学者(井上哲次郎)という人が現れ、アリストテレスの「メタフィジクス」という書物[4]を訳すときに

おっ。この「形而上」っていう「易経」に出てくる言い回しは、この「メタフィジクス」という考えの訳語にするのにちょうどいいや。

と考えて「形而上学」と訳して本の題名になったので、今では「形而上」と言ったときには大概「メタフィジカルな」という意味で使うようになってしまいました。

4.)アリストテレスの「メタフィジクス」

メタフィジカルという語の起こりは、このアリストテレスの書物でした。

彼の一つ前の書物が「フィジクス(ギリシャ語で『タ・プュシカ』、日本語で言うなら『自然について』)」という、手で触れることのできる自然界の理について論じたものでした。

これに続いて書かれたので「メタ・フィジクス(ギリシャ語で『タ・メタ・タ・プュシカ』、日本語で言うなら『自然について、の後について』)」という名前になった、というわけです。

論じられた時点において「メタ(後から)」であると同時に、論の立て方の上でも「メタ(より高次に[5])」でもありました。

5.)忘れられた、以前の訳語「玄学」

日本で井上が「『形而上学』ならちょうどいいや」と思いついて訳すのと同じ頃に、実は中国で厳復という、井上より2歳だけ年上の思想家が「メタ・フィジクス」を「玄学」と訳すことを考案していて、中国ではある程度広まっていました。

ちなみに「玄学」は三国時代に流行した思潮で「玄」とは「クロ」のこと、つまり暗くて目に見えないコトを追求しよう、という思想の一つ[6]でした。確かにコレも割と悪くない訳語に思えます。

しかし、後から出てきた井上の「形而上学」の語が中国に上陸すると、この方がポピュラーになり、以後は中国でも「メタ・フィジクス」の中国語訳は「形而上学」が定番になりました。…

経緯がなんか面白いwもともとメタフィジックスと言っていたものを日本語訳する際に中国の書物から似た意味の言葉「形而上」を当てはめた。これが広まり中国にまで逆輸入され中国でも形而上と呼ばれるようになった。

しかし現代日本ではまた我々はメタフィジックス・メタフィジカルいわゆるメタ、メタ的と表現する場合がほとんどで先祖返りしている不思議w

 

タイトルと”形而上のメタバース”は単に流行りのメタバースとかけただけで意味はないネタだけど、メタバースをあえて日本語訳するなら「形而上世界」とでも呼ぶべきなのだろうか。